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復活へ(9) [脳出血から2年]

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名古屋でも地元でも、医者に問うのは酒だった。
自分の好きな酒が脳出血に、何らかの要因くらいは有ったのではないか。
だったらきっぱりと言って欲しかった。
しかし返答は押し並べて「それも一つかもしれませんが、そんなに単純なものでは有りません」
そして必ず「お酒はかえって、適量なら健康にプラスです」だった。
それは統計からも出ているので、と、、、分かってはいたが・・・

弱い自分は酒に頼ろうとし、利用するよう逆手に拠り所とした。

言い争いの最初は決まっている。
「医者が言ってただろ、酒は止めなくても良いって」
「だから何度も言わせないでよ、適量ならでしょ」
そんな事は過ぎるほど承知していた。
そして悪い酒が後押しするように、つまらない過去を持ち出し言い争う。
さらに・・・
これ以上は・・・


家庭が壊れるのは呆気ない、曲がりなりにも四半世紀以上築き続けたのに。

通常でも痩せ気味の身が、とことん落ちると動けなくなる。
胃腸も普通の食事を受け付けなくなり、最悪時はとろとろに薄めた粥を、日に一椀押し込めれば良い方だった。
しかし自分で招いた生活では、最低限の買い物も自力でこなさなければならない。
そんな時の最後の頼りはスクーターで、少しでも動く気になるとスーパーまで行っていた。
その他、滞った家事から目をそらしていたが。

しかし既に家庭を持つ長女は見捨てずに、何かと世話をしに訪れてくれる。
さらに恥ずかしい話だが、自分の娘に尻を叩かれるのだ。
娘夫婦の協力も有り、酒を断って体重を戻すことにした。
胃に負担をかけない介護用の飲料から始め、いわゆる病院食のような食事が中心だ。
喉を通らなかった固形物が、と言ってもお粥やバナナだけども、次第に消化できるようになる。
そして徐々に体重が戻り気が付くと、早くも木々は色づき散り始めていた。
精神的にもかなり落ち着いてきたのに、今度は新たに肉体的な変化を感じ始める。

今度は何だ、痺れが痛みに変わって来たぞ。

かかりつけ医によれば、
神経伝達の鈍りに伴った血液循環の関係から、初めて迎える寒さに筋肉が痛みを感じるのだと。
要するに、寒さによる血行障害の様なもの、だった。
その半年以上後に判明した事からは、随分と違った説明だったのだけれども・・・
あまり納得が出来なかったが、この時点では春を待ち耐えるしかなかった。

暖かくなるまで耐えるのだと、自分に言い聞かせていた。だけど。
何だこの痛みは、快方に向かうどころではないではないか。
本当にどうなるのだろう、社会復帰なんて程遠い。
何かに付けて悲観的になり、生きている意味を思うと辛くて悲しくて。
その後に襲ってくる無力感と無気力、眠っているのか起きているのかさえ分からない。

何もせずぼんやりと考える日々が、空しく過ぎていた。

しかし気を振り絞り、縋るように医者を頼ってみる。
即、脳卒中後うつ病(PSD)と診断された。
「正直に話してくれて良かったです。このままだったら本当の鬱病になるところでした」
と。

抗うつ薬と睡眠導入剤を処方され、良く眠り明るく過ごすよう促された。
そうしてもう一度、自分の好きな、生きがいに、没頭する。



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復活へ(8) [脳出血から2年]

待ち望んでいた桜ですが、散り様は相変わらずの潔さです。
決してネガティブな気にならないのは、新緑の沸き上がる季節を予感させるからでしょうか。

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たとえそれが遊びでも良い。
転げ落ちて行くばかりの時期に、とりあえず憂鬱さを紛らわせてくれるなら。

スクーターに乗れると分かったのは大きな収穫で、更にマニュアルミッションも試してみた。
左足は以前のままだからギアシフトに問題はないが、右足をステップに乗せる感覚が分からない。
だけど自分の足をステップに乗せるのなんて、殆ど反射に近い動作だったけど、それを意識してやるようになるとは。
上がるには上がるのだが、本当に上がっているのかが分からない。目で確かめないと。
だからステップに足を乗せても、それ以上がままならないのだ。
フットブレーキに困る。

ただバイクにおいて制動の8割はフロントに有るから、リアブレーキは極論すれば補助みたいなものだ。
そうは言っても何とか右足でブレーキを踏みたいので、まずモンキーを広場に持ち出し何度も練習した。
ステップに足を乗せた感じ、ブレーキペダルを踏む感じ、痺れの中から僅かな違いを見つける。
それを何日も繰り返すと、何となく後輪だけの制動も出来る様になった。
小さいバイクとは言えマニュアルミッションの、モンキーに乗れると言う自信がついてきた。

正し練習は体調次第で、全く動く気にもならない数日が、月に2・3度必ず来る。
血圧を下げるために強い薬を処方されていて、まだ残る脳出血後のぼんやりした感覚も手伝い、何が本当の自分なのか分からない。
強烈な脱力感に襲われる日は、嫌な事ばかり終日考える。
一体俺は何をやっているのだ。この痺れる身体はどうなるのか。何時仕事に復帰出来るのだ。

そして少し体調が上向くと、それらを振り切るように練習。
そんな生活を繰り返し、何時の間にか数ヶ月が経ち、夏がやって来た。

右半身に影響が出るのは、運動系ばかりでなかった。
幸い視覚には殆ど影響は無いが、聴覚や味覚には少なからず有る。
特に味覚、辛目が好きなのに普通の辛口カレーさえ苦痛になっていた。
旨かったカレーを食べるのが辛くて、子供用なんて馬鹿にしていた甘口しか食べられない。
そして最も衝撃的だったのは、酒が旨くないのだ。

「酒が呑めないなんて、人生の半分を損しているぞ」そう下戸を揶揄するほど、とにかく酒は好きだった。明日死んでしまうかも知れない、呑まなければ損だ位に。
それまで生きてきたどんな場面でも、必ず酒が有ったのだ。
悲しさや苦しさを紛らわし、楽しさや満足を数倍にしてくれたのが酒で、もう年に370日は呑んでいたかも。
脳がそれらを覚えこんでいるから、こんな時期だからこそ呑むのだが、全く旨くないし酔えない。
こんな筈じゃないで呑むから、悪循環に陥り悪い酒にしかならない。

幸か不幸か肝臓は相変わらず丈夫なようで、旨さや酔いが何時までも訪れないと、さらに煽るように飲んだりする。
肝臓と対照的に胃腸は強くないので、瞬く間に食欲がなくなり、それでも呑むから痩せ型がより体重を減らすばかり。こうなって来ると生活が荒れ、修羅場を迎えてしまう。

今から思うに、最も思い出したくない時期に入る。
現場で倒れてから半年、盆踊りが始まった。



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復活へ(7) [脳出血から2年]

週末と言うのを、久しぶりに感じます。
改めて長い休養だったな・・・と思いました。

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人は生まれてから徐々に、様々な事が出来る様になる。
凡そ順に並べてみれば、寝返り・ハイハイ・つかまり立ち、そしてふらふらと歩きだす。
言葉を話したり筆記具を使うと言った、人間らしさよりもまず移動する事から始まる。
人間も動物だから生きていくためには、自分の身体を移動させなくてはならない。

そして会話が上手になると、歩行もしっかりと出来る様になり、どちらかの足を地面から離してより早く移動する。
かけっこも出来る様になるね。
この頃になると多くの子供が、歩くよりも更に不安定な自転車に乗り始める。
そうしてある程度社会を知り、道路交通が理解できるようになると、バイク免許の取得が可能になる、待ちに待った16歳だ。

ちょっと横道に逸れて。
人間がエネルギー効率の悪い直立歩行をするようになったのは、大きて重くなる頭脳を支えるためと聞くけれど。
私は最近。繊細な動きを両手に任せつつ、移動は両足でこなすために、現在のスタイルを作り上げてきたのでは、とも思う。
だから、両足でこぎながら主に上半身でバランスを取り、ブレーキを握りスピードを加減する機械、自転車にも乗れるのかなって。

オートバイはこがなくて良いし更に一般的なスクーターでは、両足をステップボードに乗せておくだけでもそこそこ大丈夫だ。
自分の場合、右半身は以前の様に動かせないが、幸い上半身はそれ程で無く、右手は拙い程度にブラインドタッチが出来ていた。
右足は先に行くほど感覚が薄く怪しくなるのだが・・・
それでスクーターに乗ってみたら、思いの外できたのだ。歩くよりしっかりと。

マニュアルミッション・バイクで左足先の役目は、主にシフトチェンジだけだ。
右足先は後輪のブレーキだけ。
そして左手はクラッチ操作で、右手はアクセルと前輪のブレーキ。
これがオートマチックのスクーターだと、左手の後輪ブレーキ・右手のアクセル&前輪ブレーキだけで操縦できる。

だけど4輪の場合はAT車でも右足は重要な役割で、いまだに教習所ではAT車のブレーキ操作は「右足」、としているほどだ。
特にATがまだ稀で、当たり前のMT車から乗り始めた自分には、左足はクラッチ操作に専念が普通だ。
ヒールアンドトゥで駆けるのが、峠の真骨頂だ!なんて時期も有ったから、左足はクラッチ操作以外に考えられない。右足のアクセルとブレーキも。

車は走るより、止まる方が大切だ。

だから右足でブレーキ操作する4輪は、この時期の自分には自信が無く遠ざけていた。
でも、そろそろ生活を自立させるため、移動は不可欠になっていたし、怪しい感覚の右足を使って、平坦な場所以外を歩くと、つまづくばかりで困っていた。
だけど危なっかしい歩きより、スクーターに乗る方が安全だった。
足に全体重が圧し掛かる歩きより、楽に遠くに移動できた。
椅子に座るのとほぼ同じく、足は身体を少し支える程度で、上半身を使ってバイクをコントロールすれば、走行に危険が無いと再認識したのだ。
停車時に跨った状態のバイクを支えるにも、全体のバランスさえとれれば、地に付けた足には殆ど負担がかからない。左足を主にすれば、更に安心だ。

この時、高校時代に身体が覚えこんだバイクは、嬉しかった。

高校生になって以来、自分は片時もバイクから離れなかった。
4輪に乗り始めても、社会人になっても、結婚して子供が出来ても。
興味が他に移りかけたり増えても、多少の波の中にバイクは有った。
だから歩くのに困っていたこの時、W3・スカイウェイブ・モンキー・レッツ4が有り、移動手段として有効だと気付いた。

乗るのと同じくらい好きなバイク弄りにも、沸々と意欲が再燃してきたのだ。
今、とりあえず、没頭できそうな事が見つかった気もした。



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復活へ(6) [脳出血から2年]

二年ぶりに社会復帰しましたが、思ったより普通に出来たのは自分でも意外です。
引き継ぎも兼ねたオリエンテーション的な二日間は、この歳にして理系から文系に変わった感じです。

この先も身体の事を思うと、無理なく出来そうで少し安心しました。

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自分にとっては初めての経験、それも予想すらできなかった出来事の連続だった。
しかし一応落ち着きを取り戻し、新たな日常の始まりである。

医療センターとしては基本的に最後の診察であると告げられたのと、質問した返答の「分かりません」の意味などを暫く考えていた。
普通、これで最後の診察とは完治したか、もう手の施しが無いかのどちらかだろう。
あっ、もう一つあるか。とりあえず医療センターの専門医の手を離れ、後はかかりつけ医に委ねると言う事かな。うん、こっちが自然だ。なんて変な結論をだす。
もう一つの「分かりません」については、そう答えるしかないからだろうけど・・・でも。
堂々巡りになるばかりなので、とりあえず先送りして凌いだ。
それで今度は次を考える。自身の現状は、を。

右半身が受けた影響は全てに等しくでは無かった。上肢下肢共に末端へ行くほど痺れ、と言うか感覚の薄まりが顕著になる。特に足先からは、踏み出しても地に足が付いた感じが殆ど伝わって来なく、それまでどうやって歩いていたのかが不思議になった。
右側の足元を見ながら、つま先の出具合を確認しつつ、何も影響がない左足に合わせてみた。
頭の感覚が鮮明さを取り戻してくるほど、逆に希薄になる足の感覚だったが、意識して歩けば歩ける様だ。

だけどこの希薄な感覚と言うのを、どうやって人に説明するかはなかなか難しい。
最近はそこそこ上手く伝えられているのかな・程度だから、まだ自分でさえ戸惑っている最中の当時は苦慮していた。
慣れない人が正座をしばらく続け、いきなり立ち上がるとふらつくと思う。
その一番の原因は足が痺れているからだけど、これは多くの人に自らの体験で理解してもらえた。
更に、もう少し違った感覚になってきた状態を、別な角度で指先の出血が止まらない場合を例に出していた。

出血を止めるには、指の付け根をゴムで縛り、応急処置を施すと思う。
そうすると出血は収まって来るけど、痛みが指全体に鈍く散らばり、それに連れて指の感覚も薄らぐ。
その時に指に異なる刺激を加えられても、何だか他人事みたいな不思議を覚えないだろうか。
こんな感じで説明していたが、この辺りから中々賛同が得られなかった。

何度も説明を試みるが、どうしてもニュアンスまでは無理なのに、分かっていながらでも繰り返していたのは、自分で自分の状態を探っていたからだと思う。

こんな事を日々繰り返していると、今度は思いがけず出来る事が有るのも分かった。
バイクに乗れるし、歩くよりも楽だと言う事。
それも、歩くよりバイクに乗る方が、安全であると気付いた。

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復活へ(5) [脳出血から2年]

本当に暖かい日でした。
今日の埼玉県南部は、22℃を超えたようです。

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紹介状を持ち帰った中のもう一方、MRI設備がある医療センターにも行ってみた。

脳神経外科学会の指導医でいらっしゃる先生に診て頂いたが、紹介状を基にした問診での結果はやはり同じであった。もうちょっとで普通、なのだ。
とりあえず2か月後のMRI検査を予約して、後はリハビリに専念するよう言い渡され終了したが、普通だった自分ってどんな感じ?を考え始めると、混乱して訳が分からなくなっていた。

そんな不安を少しでも解消したくなり、新たな紹介状を携えて、国立障害者リハビリテーションセンターにも行ってみる。
所沢の航空公園近くに、とにかく立派な建造物が有るのは知っていたが、以前は気にも留めていなかったのがそれであった。
内部は医療とは縁遠い設備に思えるほど、何もかもが広々としていて、施設感と言うか生活感と言うか、そんなのが全く感じられない、戸惑うほどだった。
診て頂いたリハビリテーション専門の先生からも、また似たような診断を頂き、地元でリハビリに通うので良いし、それ以上を望むのであれば・・・
あくまでも望むのであれば、1週間程度の入院で、更なるリハビリ方法を模索してみても良いですが・・・良いですが、だった。
考えておきます、としか答えられない。

何だか逆に混乱が増したようでも有ったが、とにかく現在の問題点を整理してみる。
まず肉体的には、リハビリに通う事であり、自分の意志で可能な事だ。
とりあえずはメニューを作って頂いたのだから、通い始めた近場のクリニックに慣れよう。
診察結果は何処もほぼ同じだったもの。それに、
もう少しで普通を重ねて告げられていたし、障害を負った他の方から見れば明らかに軽い方だから、続ければよい方向に向かうだろう、大丈夫だ。

もう一つも肉体的、と言って良いのかな、意識を失ったダメージがまだ残っていた。
脳としては前例のない衝撃を受けたからか、フラフラした感覚は薄れつつも引きずっている。
何をするにも無気力で、楽しいという気分も暫く忘れていた。
解決する手立てすら分らない、そもそも自力でなんとかなるものなか。
ただ、もう少し様子を見るしか無いだろう、たぶん時間が手助けしてくれるはずだ。

自分なりに整理してみても、結局は希望的観測ばかりだけど、増すだけの不安を紛らわのが精一杯だった。

そして発症から2か月後、4月の下旬に予約していたMRI検査を受けた。
名古屋で2回、これで3回目になるが、結果は極めて順調な回復であった。
MRIだから出血の痕跡は微かに分かるが、CT検査であれば分からない程度までになっていた。
ただこれは、痕跡にとりあえず体液が満たされただけであって、死滅した脳細胞は戻らない。

しかしそれを補うためのネットワーク構築は途上であるし、現在も続く右半身の痺れはまだ神経回路が出来ていない証らしい。それにしても、途上とは何とも嬉しかった。
だとすれば、身を乗り出して聞きたいのが、構築がどのように進み、何処まで元に戻るのかだ。
だけど答えは・・・分かりません。

そして医療センターとしてはこれで最後、後はリハビリを続けなさい、で終了した。



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復活へ(4) [脳出血から2年]

今日は大宮の埼玉運輸支局まで、バイクの廃車手続き行ってきました。

つい大宮のと今も言ってしまいますが、現在はさいたま市西区になりますね。
広大になったさいたま市ですが、運輸支局のすぐお隣は上尾や川越ですから、川口からだとバイクでも1時間ほどかかります。

アドレスで行きましたが、まだ寒いですね。

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埼玉に戻ってまずは、地元の医療機関に行った。

リハビリ等で一番通うだろう直ぐ近くと、MRI検査設備がある市立医療センターの2ヶ所だ。
近所のいわゆる町医者では、リハビリの計画を立てるため、現在の身体状況を確認してもらう。
リハビリなんて人生で初めての経験だから、色々な器具や設備はドラマで見た程度だし、自分がまさか使うようになると思っていなかった。
この先お世話になる現実を、まだ受け入れられていない自分との闘いの始まりだ。

平行棒の様な両手幅の、歩行補助手摺に促される時に、介護してくれる方の手を無意識に払いのけている。
「ああ、自分はこんな体になってしまったのか」と、背中に受ける視線にも思い違いな哀れみを感じながら。
こんなネガティブ感情を、払拭するかのように体を動かそうとすれば、意思通りに動かない右半身に更なるもどかしさを感じ、苛立ちが募るばかりなのだ。

今は冷静に客観視が出来ていると思うが、その時はそんな余裕なんてある筈も無い。

そして所見を頂けば、健常よりちょっとだけ、もうちょっとで普通、なのだ。
それは多少無理をしていた自分でも感じていた事だけど、その”ちょっと”が悩ましくのしかかり、暫くはそれにも苦しんだ。

”ちょっと”には希望や期待、もっと言えば励ましや慰めも多分に含まれているとは、薄々ながら思いはしても、半ば強引にもみ消していたんだな・・・
自分の身体は必ず元に戻る、悪くても数ヶ月の休養後には仕事に復帰できる筈だ、としか考えたくなかったから。

そしてリハビリのプランが提示された。
週に2回外来し、戻らない呂律の対策としての発声と、痺れによる右半身の変調を緩和する施術だ。
具体的に。出来るだけ大きく口を開けて短文を読み上げ、それを対面で評価してもらう。
それがどれだけ聞き取り易く相手に伝わるかを、回を追いながら向上を図るのが前者。
マッサージで体をほぐした後に、各部の屈曲等で緊張した身体を戻して行く狙いが後者。

最後に、この様な進め方を予定しているがと問われても、よろしくお願いしますの他には無かった。
ただ、自力で無理なく通える状態で、送迎に関しては話に出るまでも無いほど、やはり普通とはちょっとだけ、なのだ。

ちょっと、一寸≒3cm、なんて甘美な響きか。すぐ手が届く所に・・・では無かった。



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復活へ(3) [脳出血から2年]

今日から三月です。
先ほど雨戸を入れていた時に、梅が咲き始めたのを見つけました。

年明け位から徐々に蕾が膨らみ出したのですが、本日の急な温かさで一気に開花した様です。
昨年の11月ころに地元の催し場で、枯れ枝が刺さったような小鉢を買ったのですが、厳しい寒さを乗り越えた、小さな生命の力強さを感じます。

機械系の私としては、植物類に疎いと言う事もあり、この梅の正式名も既に忘れています。
その罪滅ぼし、ではありませんが、タイトル画像をそれに替えてみました。

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名古屋から帰りの新幹線車内で、飛び去る景色をぼんやりと眺めつつ、色んなことを考えていた。
何故脳内の毛髪程の血管が切れる事により、周りの脳細胞を押し潰す力が働くのだろうか。

私の場合は出血箇所が、ピンポン玉程度まで膨れ上がった様だ。
そこを起点として脳全体に負荷がかかり、耐え切れないほどまでになると、本能により意識を失わせるらしい。
しかし急激に血圧が上がったとは言え、全てが同圧になる筈なのに、何故力のバランスが崩れるのだろうか。管内圧力は何処でも等しい、だから。
うん、まてよ、単位面積当り、パスカルの原理そのもの、油圧ブレーキそのものじゃないか。
細い血管から出た血液が空間を作り始めるが、容積が大きくなっても圧力自体は同じだ。しかし、新たな空間の表面積は広くなる。
だからピストンの面積の比で大きな力を生む、正しくディスクブレーキと同様だ。

なんて・・・こんな時に考える内容ではないだろうに、染みついた機械バカは直らなかった。
さらに、未だそんな事をはっきり覚えている私なのだ。
振り返れば、チョッと勘違いに帰結しているけど。

勿論、家に帰還した後の生活や、仕事や趣味、はたまた猫の事まで考えた。
真っ先には職場復帰であるが、これだけ順調な脳出血跡の収縮ならば、数ヶ月で戻れるのではないか。
それに伴った半身の痺れ等も、特に肉体的苦痛は無いのだから、これも適当に収まるだろう。
今から思えば寝言を、であるが・・・

何故医者が先の話になると、言葉を濁す様にはっきりしなかったのか。
この時点では分からないし、殆ど気にしていない、自分であった。



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復活へ(2) [脳出血から2年]

二年ぶりの社会復帰が決まり、本日、就労開始に向けての契約等に行ってきました。

四月より正式な勤務になりますが、その二週間前から引き継ぎも兼ねた、パート扱いで来てくれないかとの提案を頂いていました。
私自身も色々と不安が有ったので、勿論ありがたくお受けしています。

それで最終日とは言えまだ二月ですが、早めの準備開始になりました。

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出張先の名古屋で脳出血を発症した私だが、大部屋に移って数日後には、ヒマで時間を持て余すようになった。

まだ倒れた影響が残っているから、足元はふらつくし色々と感覚もおかしい。
でも何処が痛いとかの肉体的苦痛は全くないので、院内では限度を感じるほどの探索をする。最初は看護師さんが必ず歩行の付添をしてくれたけど、そのうち勝手に歩き回る私を見て呆れ顔だった。

もう横たわっている必要が無いのは医者も認め、地元の埼玉で引き継いでくれる医療機関が有れば、退院して通いのリハビリへ移行する事を許可してくれた。
当方で複数の医療機関を提案したので、二か所に紹介状を書いていただいた。
そして入院して僅か一週間後に、名古屋で最後の診察となる。幾つかの注意事項を再確認し、撮り終えた最終のMRI画像を見ると、出血跡の更なる消失は素人でも分かる程だった。
ただその跡に空間が出来ていて、それが徐々に萎んでゆくには、まだ時間がかかるらしい。そして脳細胞ネットワークも再構築されるらしいが、それはさらに時間がかかる事も伺った。

しかし素晴らしいな人間の脳は。一度死滅した脳細胞は復活しないが、それを補うように、控えていた細胞が新たな繋がりを作り直すようだ。控えていたと言うのを別な表現にすれば、人間の脳には多少の余裕がある、だろうか。
昔の様に10%しか使っていない説は覆されているが、ほぼ脳全体を使っている「だろう」であって、未だ完全には解明されていないらしい。

その再構築であるが、どのように組み上がるかは分からないそうだ。要するに感覚の伝達回路が、以前とは別な回路になるかもしれない。極端に言えばA→AがA→Bになるかもと言うのだ。
この時点では、分かる様な分からない様な、自分であった。

まだ、具体的には右半身全体が痺れていて、五感では、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、の視覚以外全てに何かしらの不具合がある。
ただこの現状の感じを人に伝えるのが難しく、自分すらまだ良く分からないのだから尚更だ。
一番分かり易く言えば・・・慣れない正座を続けた直後の、足が痺れて感覚もおかしい状態、それが24時間なのだ。

そして脳出血の原因である血圧だが、ICUに運ばれた時点で300近くだったらしい。だから脳の髪毛程の血管が切れた時の血圧は、恐らくそれを超えていただろうと。空恐ろしい話だが。
退院の許可が出たのは160~180と、血圧が落ち着いてきたのも大きい。

脳の血管が詰まったり、破れたりして起きる脳卒中だが、大別すると「脳梗塞」「脳出血」「くも膜下出血」になる。
脳出血である私の場合は、一時的に高まった血圧が原因の主であり、血管が詰まって起きる脳梗塞と違うらしい。だから血圧の上昇に気を付ければ、再発の可能性は非常に低いとのこと。
血管内に何らかの異物が存在し、それが全身を駆け巡る梗塞とは違い、血圧が上がらない様な生活をすれば大丈夫なのだ、と。
ただ何故今回、血圧が極端に上昇したのかは、単純には分からないし断定も出来ないと言われた。
一般的な要因については数多く挙げられたが、しかし最後に「あくまでも・・・」が必ず付いたのだ。

確かに私は高血圧気味であったが、それでも定期健康診断ではギリギリOKだった。だから自分でも今回の原因は分からないし、逆に思い当たるフシはそれこそ沢山ある。
しかし特定できない事に、どう気を付けて行けば良いのか・・・

とにかく人間のシステムは複雑らしい。
「長嶋茂雄さんをご存知ですか?あの人一倍健康に気を使う方でも倒れるのですよ」
ああそうか、そうですね。としか言えなかった。

色々な事に思いを巡らしながら、東京行きの新幹線に乗る私だった。



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復活へ(1) [脳出血から2年]

そう言えば今日は、ニャンニャンニャンで猫の日か。忘れもしないヘンな記念日になったものだ。
脳出血で突然倒れたのが2年前、2016年の2月22日だった。
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現場の朝は早い。大手重工業社の下請けである我々は毎日、朝の6時半には現場事務所に詰めていた。
清掃、当日作業の確認、各種書類の作成、そして8時5分前のラジオ体操からやっと現場が始まる。
その後の長い朝礼の挨拶に、忘れられない「今日はニャン・・・」が含まれていたのだ。

現場作業を監督してまわり、そろそろ10時の休憩かなと思い始めたころ、急に周りの空気が揺らぎ始めた。
何が起こったか理解できず、足取りのふらつきに最初は地震かなと思ったほどだ。
しかし近くの職人に話しかけるも上手く口が回らず、何でもない段差の躓きで流石に自身の異変を認めた。
その後何とか自力で事務所に戻るが、激変した様子に気づいた同僚に運ばれた病院で、意識が途絶えたらしい。

夢にしてはやけにリアルだな・・・何かの医療ドラマで観た光景の様だし、単調に刻み続ける電子音も微かに聞こえる。
ぼやける視界に映るディスプレイでは、規則的な連続する波形と、幾つかの数値がカラフルに踊っていた。
鼓動するハートマークらと並んだ三桁の数値、「うーん、何この二百なんたらは」、そしてまた暫し眠ったようだ。

はっきり目覚めたのはその何時間後かは分からないが、ICU・集中治療室のベッドに横たわる自分と、体のあちこちに張り巡らされた管や電極を確認できた。
この時点でやっと何らかの重大な事が起こり、意識を失いここに運ばれたらしいと分かる。
しかし特に苦痛は無い不思議な感覚に見舞われるが、260前後を示すディスプレイの血圧値には我ながら過ぎる異常を覚え、脳出血であったと告げられても変に納得していた。
「そうか、それで俺はここに居る訳だ」と。

数日後のMRI検査結果を熟視した医者は、出血箇所の収束の早さと、歩き回る私を見て少し驚き気味に言った。
半身不随等でもっと不自由な体になっても、当たり前な程の出血が有ったのに、重要部位をほんの数ミリ避けているかなり幸運な例だと。MRI画像で早くも痕跡に変わりつつある、脳出血の場所と経緯の解説をしながら。
そしてICUから大部屋に移される。

歩き回ると言ってもフラフラで危なっかしいが、発症後数日で自力歩行が出来ていたし、次第に意識もはっきりしてくる。ただし呂律が回らない。自分では言葉を発しているつもりなのに、実際には口が動いていない事にも気づいた。
しかし大丈夫だ。医者が言うように、俺は復活が早いのだ。

五十年以上生きてきて初めての事態の連続に、戸惑いながらも楽観視出来ていたのは、自分は半年程度で復帰する変な自信が有ったから。特に確固たる根拠は無かったけれど、これまで幾つもの山や谷を経験していたからだ。

しかしそんな経験など全く役に立たない、深い谷が待ち受けていようとは想像すら出来なかった。


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